世界、本能、意識、さまざま。

・はじめに

 

近頃マルクス主義の授業でなんか哲学的な問題を検討していた。その授業でさらに量子力学について少し調べて、自分は自分でも驚くほど自分の考えを持っているらしく、みんなに紹介したいと思う。

 

いざこう書こうとした時、うまく言葉を整えられない気もするが、頑張ってみる。

※あくまで拙者の観点である。

 

・我らは意識の世界がすべてである

「そこに机がありますか。なぜそこの机があると思いますか。」

我らは机を見てから、そこに机があると認識してきた。

我らが感じる痛みも、痒みも、なにもかも、自分の感覚、言わば意識である。

「目の錯覚」のような心理学実験はいくつもあろう。すべての感覚は本物でない可能性がある。

「机には色がありません。光がそう反射してきたから我らはそう見えるだけ。光にも色がありません。あるのはヘルツなどの「固有属性」だけ。」

・我らはこの世界の真実を知る術はない

「ゲームのなかにいるキャラクターがそのゲーム自身をしることはできない」みたいに、我らはここにいる世界を知る術はない。「我らが観察し、世界を推測することができる」ともいう人はいるだろう。でも、観察をしようとした時点でこれはもう意識と切り離すことはできない。我らが見て、観察している世界は真実でない可能性は、否定できない。

 

世界五秒前仮設は聞いたことあるだろう。この世界は五秒前で作られて、すべてのものや、君の意識や記憶なども作られている事。証明できない仮設である。

世界は本当にどんな形をしているか、多分この宇宙を作ったなにかしか知らないだろう。そもそもそういう存在あるかどうかも疑わしい。

 

でも、多くの人は、その理論になんの意味もなく、役に立たないと思い、この問題から避けた。

「意味もなく」そう。意味がなければ人はそれを無視する。意味があれば人はそれを研究する。

その意味というのは、なんだろう。

・我らが肯定できるのは、我らの本能だけ

本能。(生物学的な意味での本能ではありません)なんらかの目的で我らを動かすなにか。その目的はなんなのか、この問題は世界の真実と同じく知る術はない。宇宙の意志とも言えるぐらい神秘。我らの次元を越してもおかしくない。  

ゲームは何のために作られたか、ゲームの中にいるキャラクターたちは知るはずもない。

「君は世界すら疑うことができる。でも、君が疑っていることに、君は疑うことはできない」

本能もこれと同じく、必ず存在と言わざるをえない。

我らはなぜそんな問題を考えるか、なぜそれを疑うのか、それすべてが本能の仕業。「意味」というのは、本能、言わば目的に達するため利用できるもの。意味があるということは、そのなんらかの目的に役立てるもの。意識、感覚などもまた、その本能の産物。我らは動物と比べて、意識により、より豊富な方法で(かもしれない)、目的を達することができること。我らは感じられるすべてが、「意味がある」。我らが感じられないすべてに、「意味がない」。

我らは振動(声)を聞き、分子(匂い)を嗅ぎ、電磁波(光)を見、時間の流れを感じ、物事を思い、その全てに意味がある。

この意味があるかどうかは、本能に決められている。我らの意識で左右することはできない。先言ったと同じく、意識で認識することもできない。観察、推測はできるが、それは真実かどうかに疑うことができる。

「例えば、そこに謎の物質があります。君は感知できません。その謎の物質もまた、ほかになにか君が観察できる物質や現象に経由して間接的に感知するのもできません。」

謎の物質も世界五秒前仮設のように、証明できないことであろう。意味もないが。

 

「その部屋にお化けがいます。」Aさんはそう信じています。そのお化けは、Aさんに意味が与えられたAさんはその部屋を避けるようにした。こうしてAさんは怖がらせることなくで済む

実際に存在しないものもまた、意味があることはできる。

唯物論

「君はいるかどうか、石はそこにある」

この言葉は確かであろう。でも石がそこにあるとのように、謎の物質もそこにあるぞ。故に、石は一体そこにあるかどうかは、意味がないとも言えるだろう。でも我らはなぜ「そこに石があるに決まってる!石がないなんておかしい!」とも思うのですか。石の存在を認めるというのは謎の物質を認めると同じく虚しいことではないのですか。

そこに意味があるから。

・経験、知識、推測、予想。

我らは知ってるすべてが、経験で、主観的で、疑いから免れないもの。

なんらかの目的に、我らは推測、未来を予想しなければならない。故に我らはこれまで経験したことをまとめ、規律を探し、理論を組む。未来を予想するために。

なにが正しい、なにが間違えっている?

「君は数学の問題をやっている時、ミスしたことがあります。君はそれが正しいか間違ったかどうやってしりますか。正解がありますから?正解もまた、本当に正しいのですか。」

なにが正しいと言うんですか。

我らはそれを利用して、予想を現実に当てるものを、正しいと言う。さらに言うと、意味があのが、正しい。本当の正しさに関係なく、我らはそれを予想し、納得できる結果を得(目的を達する)、それはそれでいい。

意味もないものは、間違っていると言う。

未来が予想するー因果律にも繋がるだろう。

因が果を起こす。そう思っているのは、予想。

ニュートン力学は間違っている。でも正しい。巨視的に我らはそれを利用して予想して正しい結果にたどり着く。微視的では、予想にならないことが起こして、未来を予想できなくなり、無意味となった。

だからアインシュタインはまた正しい予想をするため、新しん相対論を組んだ。

量子力学もまた、不可解でありながら、我らはそれを使い未来を予想できる。それだけで正しいとも言おう。

予想により、こんなことをし、常に我らをのぞんだ結果をもたらすと思い知られ、動き出す。

人は道具を作るにも、その予想は不可欠。

こんな理論は猫に通用するか。猫には猫なりの理論もあるのか。ーー今からみてはそんなことどうでもいいのことかもしれないが、いつかは意味が与えられるかもしれない。こんなことを解明し、人はそれを予想し、利用して自分に訳を立てば、ということであろう。先の世界五秒前仮設も、意味があれば人はそれを信じ、基づいて理論を組み、未来を予想するだろう。

「我考える故我あり」

なにかを考えているー それも、なにかを予想しているか、どうすれば予想できるようにするのを考え とも言える。

予想するか、予想したいか。予想から離れない。

唯物論II

「そこに机がありますか。なぜそこの机があると思いますか。」

それを信じて、予想できるんだから。他の人はこれを使い、作業できる。とみたいな、様々な予想ができる。もしこれは机に似てほかのなにかだとしたら?君はこの「物体」の他の使い方を見、次は、君はこの「物体」に新しい予想ができた。この予想に対して、君はこの「物体」に他の名前で認識する。

・恒常

未来を予想するには、いつも正しい理論がほしい。Aが5m/sの速度で10sに運動すると50%で実は10mだけ動いたーーともなると、いままでの理論が使えなくなり、間違ってる理論と認識し、さらに他の理論を組もうとする。

我らは常に自分が思っていることを正しい結果に繋がると信じていた。

唯物論と唯心論

「君はいるかどうか、石はそこにある」

君はいるかどうか、見たかどうか、君はそう予想する。誰かはそこにぶっつかると転がる。そう信じざるを得ない。でないといままでの理論(信じているもの)がおかしい。改めて組まなければならないから。故にそこに意味が与えられて、石の存在を肯定した。

もし我々は、宇宙に全て観察できるものを、予想しようとしたら、それは確かに存在すると、そう信じるようにする。謎の物質だと、予想しようともできない。

すべてを予想としない場合、謎の物質も、石と同じだろう。

・我

「私は誰」「誰が私」

大体の場合、空間にかかわらず自分の思うままに動かせるものが自分。

本能に絶対に抗わないのが自分。

絶対予想。

だと思う。

例えば、君の視界が他人に入れ替えた。君はどう動こうとしても、その「体」は動かない。君はその体は自分の物でないと確信していた。

なお、もし君のクロンがいた。同じものを考えていた。君は「あそこにいる私は〇〇をする」(ひとつ個体に対して相対的な「あそこ」でなく、両方が感じている絶対空間の位置。そのあそこは自分を当てることも可能です)と思うとその個体が本当に動かした。その場合は、君はそのクロン体が君自身だとも言えるだろう。

さらに、君はサイコキネシスを手に入れた。他人では絶対に干渉できない。君は石がどれだけ遠くても自由自在に操ることができる。石が君自身だとも、そう感じられるんじゃないか。

そもそも自分とはなんなんですかという質問もまた、本能ーーなんらかの目的によって、予想しやすくなるため、答えを変えるんだろう。

・他人

ほかに自分と違う意識などあるのか。それを知る術もない。証明できない。だがあると信じているのは、予想ができるから。意味があるから、ほかの理論とも同じく信じていた。

 

・物の区切り

人は予想しやすくなるため、ある程度の物質を全体的に締まり、名前をつけて、全体的に予想をする。

 

・動物と人

自分ができる(もしくはできないができてもおかしくない)、そしてそれがあれも多分できる。自分ができない、そしてそれがあれも多分できないーーそういう時、あれを人間だと認識した。自分の桁違うほかのもの、あるくらいのことができるや状態により「なにか」を動物か、植物か、さらに宇宙人やロボットも認識できてしまうだろう。

 

・不変と変化

計算することなく未来への予想を当てることを不変である。この石はそこにいる。これからも、この石はそこにいって、計算する必要もない。実は変化していても、我々にとって計算しても意味のないこと。あえて計算しようとすると、変化しているともいえるだろう。

動いている石は、我々は石はつきどこにあるか、角度はどう変化してしまうか、それを計算している。あえて計算しないとすると、不変しているともいえるだろう。例えば、箱に石がある。石は箱に転んでいる。でもそれは人にとってどうでもいいことであろう。石は不変。しかし、本当に不変だと思う時は、人の恒常予想とは違反する。そう思うには難がある

あるいは、いままでの経験を積み、組んだ理論を不変なものである。これも本能の仕業である。

 

因果律、過去と未来

まず、因果律も、人の組んだ理論。因により果を予想する。因が過去となり、果が未来となる。

そして、因果を繋がる糸が時間となる。

事件Aは発生した

事件Bは後で発生した

AとBにそこに因果がない。

事件Aと事件B、どっちが先、どっちが後?

理論はそう言った。時間は相対的である。観測者により先後が変わる。

先ず事件Aを観測したAを観測してそれを予想している途中Bが発生したAが先になりBが後となる。

しかし、因果に基づいた先後だけ、いまは抗えない。

 

 

空間にもその因果が存在する。空間と時間は一体。しかし、普通では人はそう思わない。これは感覚や意識か、予想しやすくためか、何か理由で区別された。次元の3つを空間として観察し、次元のもう一つを時間として感覚する。

我々は言う。1sに10m位置にある5m/sで運動する石は1s後2sのところ15mの位置にある。

でも、すこし世界の見方を変えよう。

そう言ってもおかしくない。

10mに1s時間にある0.2s/mで運動する石は5m後15mの位置に2sの時間にある。

時間はまだ時間ですか。空間はまだ空間ですか。

 

0sに0m位置にある5m/sで運動している石がある。

0sに50m位置にある-5m/sで運動している石がある。

そして、5s後、5sの時間で、25mの位置に2つの石がぶつかる。

もし先みたいに考えると、なんか理屈がおかしくなるんじゃない。

なぜ25m位置に石がぶつかってしまう?時間の流れによって計算しなければならない。

まだ時間を中心として、時間の流れにより因果律に囚らわれている。

今回は空間を中心として考える。

先の例として、我々はしった。5sの時25mに位置に2つの石がぶつかる。

今は、25mの位置に、5sの時、2つの石がぶつかる。

0mに、s時間にある0.2s/mで運動している石がある。

0mに、10s時間にある-0.2s/mで運動している石がある。

25m後、25mの位置に、2つの石が5s時間で重なり、ぶつかる。

 

いかにもこれも想像にくい。

我々はそう観測できていない以上、これは想像できないことだろう。

四次元を想像できないとは同じである。

 

次元の座標を変えて、初めて観測できることが生まれ、観測できなくなることもあるんだろう。

 

因果律がまだ正解と認識している以上、人は過去へと行けない。もしそれが現実していたら、必ず因果律が破り、いままでの時空の理論も論破されるだろう。

たとえば、目の前に他のなにかがいる。あれは未来をして、過去を知らない。あれは未来により過去を予想する。その時、因果律はあれにとって、人類とまっ逆であろう。未来は本当に未来だろうか。過去は本当に過去だろうか。

 

・推理・反予想 主観的能動?

人は未来を予想するだけでなく、過去への推理もできる。今この石は5m/sで20mの位置にある。5秒前は-5mの位置あることは人はそれを推測できる。

故に、人はある目標のため、反予想する。どんな条件が必要かと。

私はご飯を食べたい。

その前にご飯をもらう。

その前にご飯を買う。

その前にご飯のあることろへ行く。

食堂にご飯がある。

歩いて食堂にいく。

反予想完了。それで、私は下から手順をとって上の結果へとたどり着く。ちゃんと食事をとった。

この一連の作用は、主観的能動と言う。