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「なんであたしはこんなに不幸なんだろう」

先週はバイトがクビになり、未だ新しい仕事を見つけてないあたしはつまり無職です。このまま生活費も保証できないかもしれない。が、これは重要じゃない。

「はああ」あたしは先からもらった手紙をみて、嘆いた。

 

「XX文庫新人賞 落ち」

 

「これはもう何回目なんだろう。今回の小説といい、前の小説といい、どっちも努力し、バイトもそのため欠席することが多く最後クビになるのも少なくない」

一体なにが欠くのか。まだ分かっていない。ネガティブな気持ちに落ち込んでいるまま、あたしは眠りにつく。

 

 

「俺は勇者だ!平和を守る正義の味方!」

ああ、あたしはまたこのセリフを思い出す。「XX」の主人公の名言。その小説はあたしに巨大な影響を与えた。いま考えても、夢があふれるほど感じられる小説だった。その後、あたしはいくつの小説も読んで、さらに作家になりたくなった。大学卒業してからずっと小説を書いていた。結局こんな無様な姿で。もっと夢のある仕事だと思ったのに。

 

 

いまは何時だろう。もう朝か。あたしは目を覚ます。あたしは「XX」を見つけて、もう一度読もうとする。

やはりいい小説だった。でもあたしはこういう小説を書けなかった。

 

あたしは本を閉じた。一息つこう。そう思ったあたしは付近にある公園に着いた。

なんという綺麗な花なのかしら。あたしもいつからこんな花みたいに輝けるかな。あたしは花をみながら、いっそ花になったほうがいいかなという考えも浮かんだ。

 

暑い。そろそろ帰ろうか。

「ああ、暑いねぇ」あたしは文句を聞いた。向かうと、公園の職員さんは水を撒いている。これも大変な仕事なんだなとあたしは一瞬そうおもったが、違った。職員さんはとてもいい笑顔していた。

 

そっか。あたしは花だった。

小説を読んで盛り上がったあたしは間違いなく輝いている花だった。

そして、小説を書いている作者たちはきっと、職員のように、どれだけ痛みや苦しみをうけて、それでも、読者の笑顔を見たい、そのためやり続いていた。

小説家は夢のある仕事じゃないんだ。夢を届ける仕事だ。

小説家は輝くもんじゃないんだ。輝かせるものだ。

 

なんで気づいてないんだろう。小説に欠くのはきっとこれだ。どんなに苦労しても、読者に夢を届けたい気持ちは忘れられない。忘れちゃいけない。

 

なら、今やるべきことはただ一つ。この気持ちを抱えて、あたしは執筆しはじめる。

 秋はどんな季節ですか?よく考えたことないが、やはり、穏やかな感じかな。  秋は始業式の季節。夏のにぎやかを経って、みんなが学業に集中する。中学生も、高校生も、朝一から本を朗読する。夏の余りは去らず、声も元気よく聞こえる。  私も、秋の時、こころが落ち着く。町を歩いて、涼しい風を感じて、それは何より癒されると思う。もしくは、自転車に乗って、こちそち回って、疲れずいっぱい楽しめる。汗も夏、服も冬より少ない。運動のいい季節だ。  秋にも情熱がある。学生たちは一生懸命で頑張る。子供は集まって遊んで笑う。私も受験生のころ精一杯努力をした。放課後、帰り道を経って、周りの景色を見て、一日努力の甲斐があると感じられる。  桜は春のつぼみというのなら、楓は秋の炎 秋はどんな季節ですか?よく考えたことないが、やはり、穏やかな感じかな。  秋は始業式の季節。夏のにぎやかを経って、みんなが学業に集中する。中学生も、高校生も、朝一から本を朗読する。夏の余りは去らず、声も元気よく聞こえる。  私も、秋の時、こころが落ち着く。町を歩いて、涼しい風を感じて、それは何より癒されると思う。もしくは、自転車に乗って、こちそち回って、疲れずいっぱい楽しめる。汗も夏、服も冬より少ない。運動のいい季節だ。  秋にも情熱がある。学生たちは一生懸命で頑張る。子供は集まって遊んで笑う。私も受験生のころ精一杯努力をした。放課後、帰り道を経って、周りの景色を見て、一日努力の甲斐があると感じられる。  桜は春のつぼみというのなら、楓は秋の炎かな。この炎は夏と違ってすべてを燃え付くほどの暑さがなくてとても暖かくて、優しくて、愛しい。その炎は夏より生命力は高くない。楓はいつか散りゆく。でもそれこそ、秋は心のすべてを我らに見せる。かな。この炎は夏と違ってすべてを燃え付くほどの暑さがなくてとても暖かくて、優しくて、愛しい。その炎は夏より生命力は高くない。楓はいつか散りゆく。でもそれこそ、秋は心のすべてを我らに見せる。

 

 

 

2015-10-28より

「ピクシー」はい、論破!

【かふる】「はい、論破!」イラスト/★星川 輝夜 [pixiv]

 

投稿ってこんな感じ?

空想物理

まずそれを知るべき。人類は時間座標を基づいてこの世界を観測している。

 

時空を融合してみよう。

距離と時間は統一される。

ではどのぐらいの時間はどのぐらいの距離とイコールする?

そこで光速に出番です。

v=s/t指数は同じ。とすれば

光速を1にしよう。

となると、3×10^8m=1s

そう考えると、世界の礎が、世界が速度にできている。

 

そこで、公式はどんなかんじになるんでしょう。

E=mc^2 c=1 E=m

質量は、エネルギーとは等しい。

 

 

ローレンツ変換

t’=(t-vx/c)/√(1-v^2/c^2)

t’=(t-vx)/√(1ーv^2)

 

x’=(x-vt)/√(1-v^2/c^2)

x’=(x-vt)/√(1ーv^2)

時間と距離の公式が同じくなる。

我々は、いつも光速で運動している。

空間では静止となるものは時間で光速で運動している。1sで、3×10^8mで。

空間での速度が光速に近づき、時間での運動速度は減る。

Δt’=√(1-(v/c)^2)×Δt

そこはΔtを1とします。本来静止的参考物の時間の流れ速度。(光速)Δt’は運動中物体の時間の流れ速度となる。

Δt’=√(1-(v/c)^2)=√(1-v^2)

v^2t’^2=1 総速度は1、 つまり光速。

 

双子のパラドックス。宇宙に飛ぶ兄は、つまり四次元で時間の座標を利用して、ショットカットをしたことになります。

電磁波は、時間速度座標での速度はゼロ。

 

0の物体を動かして、√(1-t^2)の速度に達し、mの質量になる。

Ek=mーm0

必要の運動エネルギーはその質量の変化となった。m=m0/

Ek=((1ーt)/t)×m0

(1ーt)/tも、時間速度の変化率を表そう。

さらに。時間速度がt1からt2になると、

必要運動エネルギーEk=((t2ーt1)/t1)×m1

 

 

空間三次元での速度の変化(事実上は時間での速度の変化)は質量やエネルギーを生じる。

三次元での速度が上げ、時間での速度は下げ、質量は大きく表現されます。

もしかすると、正方向の時間運動は質量の形で、負方向の時間運動がエネルギーの形で我らに認識されることになる。

 

もし時間という座標を除くと、時間座標で物事を観察しないと、質量も、エネルギーも存在しない。

 

座標系は時間速度の座標を含めての基底。

時間速度は変わらない限り空間速度は変わらない。

慣性はそれが原因となろう。

エネルギーなし、つまり時間での速度へんかなし。空間速度も変わるわけがない。

もともと、その三次元での速度が決めた以上、第四次元の速度も決めたれていた。階数は3でした。時空は三次元でしかない。

慣性座標座も、つまりこの三次元の基底となるベクトル。

ということで、我々な世界において、他に、時間に似ているが、時間よりも絶対な似非時間座標。

光速は存在しない。

ただ似非時間座標について、いつも速度が同じってこと。

 

四次元の世界。第四次元(普通の時間ではない)も人間が世界を認識する重要な座標。

人間はそれを観測、感知できない。

どんな時間においても、似非時間が同じところで、人はそれを観測できる。

時間がいつもゼロの電磁波のように。

時間と空間は、時空速度(三次元)が第四次元についての積分の現象。

世界、本能、意識、さまざま。

・はじめに

 

近頃マルクス主義の授業でなんか哲学的な問題を検討していた。その授業でさらに量子力学について少し調べて、自分は自分でも驚くほど自分の考えを持っているらしく、みんなに紹介したいと思う。

 

いざこう書こうとした時、うまく言葉を整えられない気もするが、頑張ってみる。

※あくまで拙者の観点である。

 

・我らは意識の世界がすべてである

「そこに机がありますか。なぜそこの机があると思いますか。」

我らは机を見てから、そこに机があると認識してきた。

我らが感じる痛みも、痒みも、なにもかも、自分の感覚、言わば意識である。

「目の錯覚」のような心理学実験はいくつもあろう。すべての感覚は本物でない可能性がある。

「机には色がありません。光がそう反射してきたから我らはそう見えるだけ。光にも色がありません。あるのはヘルツなどの「固有属性」だけ。」

・我らはこの世界の真実を知る術はない

「ゲームのなかにいるキャラクターがそのゲーム自身をしることはできない」みたいに、我らはここにいる世界を知る術はない。「我らが観察し、世界を推測することができる」ともいう人はいるだろう。でも、観察をしようとした時点でこれはもう意識と切り離すことはできない。我らが見て、観察している世界は真実でない可能性は、否定できない。

 

世界五秒前仮設は聞いたことあるだろう。この世界は五秒前で作られて、すべてのものや、君の意識や記憶なども作られている事。証明できない仮設である。

世界は本当にどんな形をしているか、多分この宇宙を作ったなにかしか知らないだろう。そもそもそういう存在あるかどうかも疑わしい。

 

でも、多くの人は、その理論になんの意味もなく、役に立たないと思い、この問題から避けた。

「意味もなく」そう。意味がなければ人はそれを無視する。意味があれば人はそれを研究する。

その意味というのは、なんだろう。

・我らが肯定できるのは、我らの本能だけ

本能。(生物学的な意味での本能ではありません)なんらかの目的で我らを動かすなにか。その目的はなんなのか、この問題は世界の真実と同じく知る術はない。宇宙の意志とも言えるぐらい神秘。我らの次元を越してもおかしくない。  

ゲームは何のために作られたか、ゲームの中にいるキャラクターたちは知るはずもない。

「君は世界すら疑うことができる。でも、君が疑っていることに、君は疑うことはできない」

本能もこれと同じく、必ず存在と言わざるをえない。

我らはなぜそんな問題を考えるか、なぜそれを疑うのか、それすべてが本能の仕業。「意味」というのは、本能、言わば目的に達するため利用できるもの。意味があるということは、そのなんらかの目的に役立てるもの。意識、感覚などもまた、その本能の産物。我らは動物と比べて、意識により、より豊富な方法で(かもしれない)、目的を達することができること。我らは感じられるすべてが、「意味がある」。我らが感じられないすべてに、「意味がない」。

我らは振動(声)を聞き、分子(匂い)を嗅ぎ、電磁波(光)を見、時間の流れを感じ、物事を思い、その全てに意味がある。

この意味があるかどうかは、本能に決められている。我らの意識で左右することはできない。先言ったと同じく、意識で認識することもできない。観察、推測はできるが、それは真実かどうかに疑うことができる。

「例えば、そこに謎の物質があります。君は感知できません。その謎の物質もまた、ほかになにか君が観察できる物質や現象に経由して間接的に感知するのもできません。」

謎の物質も世界五秒前仮設のように、証明できないことであろう。意味もないが。

 

「その部屋にお化けがいます。」Aさんはそう信じています。そのお化けは、Aさんに意味が与えられたAさんはその部屋を避けるようにした。こうしてAさんは怖がらせることなくで済む

実際に存在しないものもまた、意味があることはできる。

唯物論

「君はいるかどうか、石はそこにある」

この言葉は確かであろう。でも石がそこにあるとのように、謎の物質もそこにあるぞ。故に、石は一体そこにあるかどうかは、意味がないとも言えるだろう。でも我らはなぜ「そこに石があるに決まってる!石がないなんておかしい!」とも思うのですか。石の存在を認めるというのは謎の物質を認めると同じく虚しいことではないのですか。

そこに意味があるから。

・経験、知識、推測、予想。

我らは知ってるすべてが、経験で、主観的で、疑いから免れないもの。

なんらかの目的に、我らは推測、未来を予想しなければならない。故に我らはこれまで経験したことをまとめ、規律を探し、理論を組む。未来を予想するために。

なにが正しい、なにが間違えっている?

「君は数学の問題をやっている時、ミスしたことがあります。君はそれが正しいか間違ったかどうやってしりますか。正解がありますから?正解もまた、本当に正しいのですか。」

なにが正しいと言うんですか。

我らはそれを利用して、予想を現実に当てるものを、正しいと言う。さらに言うと、意味があのが、正しい。本当の正しさに関係なく、我らはそれを予想し、納得できる結果を得(目的を達する)、それはそれでいい。

意味もないものは、間違っていると言う。

未来が予想するー因果律にも繋がるだろう。

因が果を起こす。そう思っているのは、予想。

ニュートン力学は間違っている。でも正しい。巨視的に我らはそれを利用して予想して正しい結果にたどり着く。微視的では、予想にならないことが起こして、未来を予想できなくなり、無意味となった。

だからアインシュタインはまた正しい予想をするため、新しん相対論を組んだ。

量子力学もまた、不可解でありながら、我らはそれを使い未来を予想できる。それだけで正しいとも言おう。

予想により、こんなことをし、常に我らをのぞんだ結果をもたらすと思い知られ、動き出す。

人は道具を作るにも、その予想は不可欠。

こんな理論は猫に通用するか。猫には猫なりの理論もあるのか。ーー今からみてはそんなことどうでもいいのことかもしれないが、いつかは意味が与えられるかもしれない。こんなことを解明し、人はそれを予想し、利用して自分に訳を立てば、ということであろう。先の世界五秒前仮設も、意味があれば人はそれを信じ、基づいて理論を組み、未来を予想するだろう。

「我考える故我あり」

なにかを考えているー それも、なにかを予想しているか、どうすれば予想できるようにするのを考え とも言える。

予想するか、予想したいか。予想から離れない。

唯物論II

「そこに机がありますか。なぜそこの机があると思いますか。」

それを信じて、予想できるんだから。他の人はこれを使い、作業できる。とみたいな、様々な予想ができる。もしこれは机に似てほかのなにかだとしたら?君はこの「物体」の他の使い方を見、次は、君はこの「物体」に新しい予想ができた。この予想に対して、君はこの「物体」に他の名前で認識する。

・恒常

未来を予想するには、いつも正しい理論がほしい。Aが5m/sの速度で10sに運動すると50%で実は10mだけ動いたーーともなると、いままでの理論が使えなくなり、間違ってる理論と認識し、さらに他の理論を組もうとする。

我らは常に自分が思っていることを正しい結果に繋がると信じていた。

唯物論と唯心論

「君はいるかどうか、石はそこにある」

君はいるかどうか、見たかどうか、君はそう予想する。誰かはそこにぶっつかると転がる。そう信じざるを得ない。でないといままでの理論(信じているもの)がおかしい。改めて組まなければならないから。故にそこに意味が与えられて、石の存在を肯定した。

もし我々は、宇宙に全て観察できるものを、予想しようとしたら、それは確かに存在すると、そう信じるようにする。謎の物質だと、予想しようともできない。

すべてを予想としない場合、謎の物質も、石と同じだろう。

・我

「私は誰」「誰が私」

大体の場合、空間にかかわらず自分の思うままに動かせるものが自分。

本能に絶対に抗わないのが自分。

絶対予想。

だと思う。

例えば、君の視界が他人に入れ替えた。君はどう動こうとしても、その「体」は動かない。君はその体は自分の物でないと確信していた。

なお、もし君のクロンがいた。同じものを考えていた。君は「あそこにいる私は〇〇をする」(ひとつ個体に対して相対的な「あそこ」でなく、両方が感じている絶対空間の位置。そのあそこは自分を当てることも可能です)と思うとその個体が本当に動かした。その場合は、君はそのクロン体が君自身だとも言えるだろう。

さらに、君はサイコキネシスを手に入れた。他人では絶対に干渉できない。君は石がどれだけ遠くても自由自在に操ることができる。石が君自身だとも、そう感じられるんじゃないか。

そもそも自分とはなんなんですかという質問もまた、本能ーーなんらかの目的によって、予想しやすくなるため、答えを変えるんだろう。

・他人

ほかに自分と違う意識などあるのか。それを知る術もない。証明できない。だがあると信じているのは、予想ができるから。意味があるから、ほかの理論とも同じく信じていた。

 

・物の区切り

人は予想しやすくなるため、ある程度の物質を全体的に締まり、名前をつけて、全体的に予想をする。

 

・動物と人

自分ができる(もしくはできないができてもおかしくない)、そしてそれがあれも多分できる。自分ができない、そしてそれがあれも多分できないーーそういう時、あれを人間だと認識した。自分の桁違うほかのもの、あるくらいのことができるや状態により「なにか」を動物か、植物か、さらに宇宙人やロボットも認識できてしまうだろう。

 

・不変と変化

計算することなく未来への予想を当てることを不変である。この石はそこにいる。これからも、この石はそこにいって、計算する必要もない。実は変化していても、我々にとって計算しても意味のないこと。あえて計算しようとすると、変化しているともいえるだろう。

動いている石は、我々は石はつきどこにあるか、角度はどう変化してしまうか、それを計算している。あえて計算しないとすると、不変しているともいえるだろう。例えば、箱に石がある。石は箱に転んでいる。でもそれは人にとってどうでもいいことであろう。石は不変。しかし、本当に不変だと思う時は、人の恒常予想とは違反する。そう思うには難がある

あるいは、いままでの経験を積み、組んだ理論を不変なものである。これも本能の仕業である。

 

因果律、過去と未来

まず、因果律も、人の組んだ理論。因により果を予想する。因が過去となり、果が未来となる。

そして、因果を繋がる糸が時間となる。

事件Aは発生した

事件Bは後で発生した

AとBにそこに因果がない。

事件Aと事件B、どっちが先、どっちが後?

理論はそう言った。時間は相対的である。観測者により先後が変わる。

先ず事件Aを観測したAを観測してそれを予想している途中Bが発生したAが先になりBが後となる。

しかし、因果に基づいた先後だけ、いまは抗えない。

 

 

空間にもその因果が存在する。空間と時間は一体。しかし、普通では人はそう思わない。これは感覚や意識か、予想しやすくためか、何か理由で区別された。次元の3つを空間として観察し、次元のもう一つを時間として感覚する。

我々は言う。1sに10m位置にある5m/sで運動する石は1s後2sのところ15mの位置にある。

でも、すこし世界の見方を変えよう。

そう言ってもおかしくない。

10mに1s時間にある0.2s/mで運動する石は5m後15mの位置に2sの時間にある。

時間はまだ時間ですか。空間はまだ空間ですか。

 

0sに0m位置にある5m/sで運動している石がある。

0sに50m位置にある-5m/sで運動している石がある。

そして、5s後、5sの時間で、25mの位置に2つの石がぶつかる。

もし先みたいに考えると、なんか理屈がおかしくなるんじゃない。

なぜ25m位置に石がぶつかってしまう?時間の流れによって計算しなければならない。

まだ時間を中心として、時間の流れにより因果律に囚らわれている。

今回は空間を中心として考える。

先の例として、我々はしった。5sの時25mに位置に2つの石がぶつかる。

今は、25mの位置に、5sの時、2つの石がぶつかる。

0mに、s時間にある0.2s/mで運動している石がある。

0mに、10s時間にある-0.2s/mで運動している石がある。

25m後、25mの位置に、2つの石が5s時間で重なり、ぶつかる。

 

いかにもこれも想像にくい。

我々はそう観測できていない以上、これは想像できないことだろう。

四次元を想像できないとは同じである。

 

次元の座標を変えて、初めて観測できることが生まれ、観測できなくなることもあるんだろう。

 

因果律がまだ正解と認識している以上、人は過去へと行けない。もしそれが現実していたら、必ず因果律が破り、いままでの時空の理論も論破されるだろう。

たとえば、目の前に他のなにかがいる。あれは未来をして、過去を知らない。あれは未来により過去を予想する。その時、因果律はあれにとって、人類とまっ逆であろう。未来は本当に未来だろうか。過去は本当に過去だろうか。

 

・推理・反予想 主観的能動?

人は未来を予想するだけでなく、過去への推理もできる。今この石は5m/sで20mの位置にある。5秒前は-5mの位置あることは人はそれを推測できる。

故に、人はある目標のため、反予想する。どんな条件が必要かと。

私はご飯を食べたい。

その前にご飯をもらう。

その前にご飯を買う。

その前にご飯のあることろへ行く。

食堂にご飯がある。

歩いて食堂にいく。

反予想完了。それで、私は下から手順をとって上の結果へとたどり着く。ちゃんと食事をとった。

この一連の作用は、主観的能動と言う。

いざ初めてのブログ

みなさんこんにちは

星川輝夜です。

 

絵を描いたりします。

今回はピクシーでこのブログを知り、使おうと思いました。

 

fbもブログ機能ないのでな。以後長い文章をここに置くようにします。

 

卒業してから絵力を精進したいところです。

 

ツイッター:@hoshikawakaguya

ピクシー:hoshikawakaguya(7982326)